優しい顔はあくまでも白くふっくらとしている。いや、顔ばかりか胸元あたりにゆったりと上げた左腕も柔らかく、押せば凹みそうな感触だ。指にはもちろん爪もある。とうてい木造とは見えない。
(『ドールズ 闇から来た少女』高橋克彦 より)
天才人形師・松本喜三郎
「生き人形(活人形)」を知っていますか? 等身大で精巧に作られたスーパーリアルな人形です。江戸時代に見世物として生まれ、菊人形、マネキン、球体関節人形などの写実的な人形に分類されます。今回は江戸時代の天才人形師松本喜三郎(まつもときさぶろう)の偉業と、生き人形と私の出会いについて書いてみたいと思います。
4年のロングラン公演
松本喜三郎は「にんぎょはまつもときさぶろう」という子供の数え歌が明治時代に流行ったほど有名な人形の名工でした。明治4年(1871)から8年まで浅草で開催された「西国三十三ケ所霊験記」という見世物は、なんと4年間も続いたロングラン公演。この興行は松本喜三郎が10年の歳月をかけて計画したといわれ、なんと150体以上の生き人形が出展されたそうです。
江戸で大評判の見世物
この見世物では「美濃国谷汲寺縁起」の中の観音様が巡礼の姿をかりて人を導く33場面の風景が人形で表現されました。不思議な異国人や美しい乙女たちの人形が精巧に作られていて、江戸の人々の度肝を抜きました。
興行は一目生き人形を見ようとする人々で、連日押すな押すなの大賑わい。なにしろ有名な浮世絵画家の国芳が当時の生き人形の舞台を描いていますし、江戸中の若い娘が人形の着物やしぐさを真似したほどなのです。そもそも「生き人形」という呼び方も、松本喜三郎の作った造語なのですから、彼は今でいう名プロデューサー、カリスマアーティスト、ファッションリーダー、名コピーライターだったと言えます。
大学生の私と観音像との出会い
私が喜三郎の人形と出会ったのは大学生の時です。美術部に属していた私は夏休みの合宿に参加することになりました。たまたま熊本のお寺のご住職を親戚に持つ美術部員がいたため、みんなでそのお寺にご厄介になることになったのです。
そのお寺浄国寺に喜三郎の生き人形がありました。しかも谷汲観音像が! この観音像は松本喜三郎の生き人形の中でも最高傑作と言われる作品で、浅草の「西国三十三ケ所霊験記」の主役です。
ご住職のはからい
ご住職に案内されて本堂に入ると、これまでに見たことのない仏像に大きなショックを受けました。こんな観音像見たことない! 当時松本喜三郎のこともこの人形がそれほど素晴らしい価値があるということも、全く知りませんでした。
本堂の隣の部屋で夜中にみんなでザコ寝している時も、観音像のことが気になって仕方ありませんでした。それでそっと部屋を抜け出して、本堂のガラスケースの前に立って眺めていました。
この人形は生きている!
私は暗い本堂で長い間人形を見つめました。一本一本、丁寧に植えられたまつげ、うるんだ瞳、そしてなによりもその美しい肌! 透けるようで暖かみがあり、様々な色を含んでいる、人間の肌そのものなのです。その皮膚の下には暖かい血が通っているのではと思えるほどでした。
なんでも爪の先までモデルの女性の体を細かく測って、寸分違わず再現したのだそうです。薄暗い本堂で見ていると、なんだか人形が息をしているように見えて私の肌は粟立ちました。
庶民の芸術
彼は67歳で亡くなるまでに数百体の人形を作っていますが、空襲で焼かれたり海外に流出したりして現在数十体ほどしか現存していません。明治政府は、西洋美術の彫刻はありがたがって保護したのですが、見世物小屋の人形には見向きもしなかったからです。
今は谷汲観音像は県の重要文化財に指定されていますが、日本はスミソニアン博物館やライデン博物館などに所蔵されている生き人形の調査に遅れをとっています。庶民の芸術が政府に理解されないのは、今も昔も変わりありません。
追記:2019年03月03日
大学生のときの合宿から20年以上が経過した2017年05月07日、私は再び浄国寺で谷汲観音像と、また来迎院で聖観世音菩薩像と出会うことができました。
上の写真はすべて探訪時に私が撮影したものです。こんなご縁もあるんですね。すごく感動しました。


参考文献
『ドールズ 闇から来た少女』高橋 克彦
浄国寺に滞在していたときに、ご住職が『以前作家さんが取材に来たんだよ』と教えて下さったことからこの作品を知りました。幼い少女の体の中に天才人形師の魂が蘇ったことから、巻き起こる怪異。ホラー・ミステリとしてシリーズ化してます。
このブログは2001年07月23日開設のサイト「幻想画廊」を2019年にWordpressで移築したものです。この記事は17年前の、2003年04月29日(火)に書かれました。文章の内容を変えずにそのまま転載してあります。リンク切れなど不備もありますが、どうぞご了承くださいませ。