ああ神様…………私たち二人は、こんな苛責(クルシミ)に会いながら、病気一つせずに、日に増し丸々と肥って、康強(スコヤカ)に、美しく長(ソダ)って行くのです、この島の清らかな風と、水と、豊穣(ユタカ)な食物(カテ)と、美しい、楽しい、花と鳥とに護られて…………
(『瓶詰地獄』夢野久作 より)
アンリ・ルソーの白昼夢
アンリ・ルソーの『夢』をご覧になったことはありますか? 私は子供の頃からこの絵が好きで、画集をカラーコピーして机の前に貼っていました。実物の絵を見ることができたのは17歳の時です。
まず驚いたのがその大きさ。実物は2m×3mぐらいあるのです。こんなに大きい作品だとは思ってもみませんでした。カンバスいっぱいに描き込まれた熱帯の植物、ユーモラスな動物たち、そして長イスに横たわる女に引き込まれて『夢』から目を離すことができませんでした。私自身が密林の中に入り込んで、白昼夢を見ているようでした。
その時突然、私は強烈な甘い花の香りを感じました。慌ててキョロキョロと周りを見回しましたが、強い香水をつけているようなご婦人はいませんでした。まるで作品の中の花からただよってきたような気がして、私の心臓は跳ね上がりました。花の香りはすぐに消えてしまったのですが、いったいあれは何だったのだろうと今でも不思議です。
夢野久作『瓶詰地獄』
ルソーの『夢』と同じく、美しい熱帯の楽園を感じた作品が夢野久作の『瓶詰地獄』です。夢野久作といえば、日本の三大奇書の中の一つ『ドグラ・マグラ』が有名ですね(ちなみに他の二つの奇書は中井英夫『虚無への供物』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』)。
『瓶詰地獄』は彼が三十九歳の時の作品です。
この小説は「三本のビンに詰められて浜に漂着した三通の手紙」という構成になっています。「第一のビン」「第二のビン」「第三のビン」が書かれた順でなく、漂着した順に並べられているのがミソです。
ビン詰めの手紙を流したのは、船が難破して無人島にたどりついた兄妹です。子供の頃に遭難し、南洋の孤島で暮らすうちに二人は健やかに成長していきます。日に日に美しくなっていく妹アヤ子を愛し始める兄の太郎。極彩色の美しい島が二人にとっては悪夢のような地獄になっていきます。『瓶詰地獄』は近親相姦という禁忌を扱った、哀しく切ない短編です。
熱帯の夢を見られる小説
私はこの小説を高校生の時、学校の図書室で読みました。旧字体で書かれた文をゆっくりと読み進むうちに、あたりの音が消え熱帯のむせかえるような植物の香りと、鳥や獣の鳴き声が広がってゆきました。ルソーの『夢』を見たときのように、甘美で蠱惑的なストーリーに頭がしびれたようになったのを覚えています。
読み終わって本から顔を上げると元のまま図書室の机に座っているのに気づき、また最初から読み直しました。今度は手紙が書かれた順番で。以来『瓶詰地獄』は夢野久作作品の中でも最も好きな短編になりました。
極彩色の官能の世界
今回のギャラリーは楽園の黄昏時のせつなさを、自然のモチーフを組み合わせて描いてみましたが、やっぱり文字の持つ想像の力には遠く及びません。きっとどんな絵だって、空想力にかなうものはないでしょう。
夢野久作は非常にアクの強い作家で好き嫌いが分かれると思いますが、この『瓶詰地獄』は二十ページもありませんから、ぜひ読んでみてください。読んだ方はきっともう一度読んでみたくなると思います。私が読んだのと同じように、2度目は手紙が書かれた順番で。むせるように甘く美しい極彩色の官能に、あなたもきっと夢中になることでしょう。
参考文献
『あやかしの鼓』夢野 久作
『瓶詰地獄』収録の短編集です。夢野久作といえば『ドグラ・マグラ』ですが、短編集も幻想的で素敵。ちなみに漫画家の安野モヨコさんは『ドグラ・マグラ』の登場人物『モヨコ』をペンネームとしたそうですよ。
このブログは2001年07月23日開設のサイト「幻想画廊」を2019年にWordpressで移築したものです。この記事は20年前の、2002年12月03日(火)に書かれました。文章の内容を変えずにそのまま転載してあります。リンク切れなど不備もありますが、どうぞご了承くださいませ。