【魔女】魔女狩りの恐怖──中世暗黒時代のヨーロッパとキリスト教との関係

魔女熱は非常に恐ろしく、非常に広まっていたので、人間の想像力ではそれを包括できないほどである

(『魔女術とオオカミ変身術』C・ウィルソン より)

中世の暗黒時代・魔女狩りの歴史

1500年代から1800年代までの中世ヨーロッパは、魔女狩りに国中が震え上がった暗黒の世界でした。国家とローマ法王庁によって弾圧された異端の者たちは、なんと数十万から数百万人ともいわれています。そのほとんどが激しい拷問を受けた後に、群衆の前で火あぶりの刑に処せられました。

みなさんもご存じのオルレアンの処女ジャンヌ・ダルクも、英雄から一転して魔女の汚名を着せられ、生きながらに焼き殺された一人です。

魔女は集会(サバト)を開いて悪魔と性交し、妖術を行う者のことです。天候の不順、人間や家畜の病気、農作物の不作などあらゆる不幸が魔女のせいにされました。

ねたみやそねみによる嘘の密告

魔女は住民からの告発で裁判にかけられました。きちんとした調査の上の証言ではなく、世間の噂やねたみ、ウソによる密告が大部分でした。変わった外見や性格をしている者、体が不自由な者、精神を病んでいる者、中には急に財産を手に入れた幸運な者も嫉妬されて密告されたのです。

1630年代に魔女追求者に任命されたフランツ・ビュイルマンという男は、恋する人妻に振られたのがくやしくて、その人妻を魔女として捕らえて拷問の上殺害しました。しかしこのような不当な裁判は珍しいことではありませんでした。

恐ろしい拷問と自白

逮捕された魔女は劣悪な環境の牢獄につながれ、毎日何時間も続く尋問と拷問を受けました。むち打たれ、焼きゴテをあてられ、水責めにされるという残虐な仕打ちを連日受けるうちに、獄中死する者も多かったようです。生き残った者も厳しい尋問にウソの自白をしてしまって死刑になりました。

時には被告は縄で縛られ、川に投げ込まれました。浮いてくれば魔女である証拠、沈めば無罪──といわれていたからです。これではどっちにしろ生き延びることはないんですよね。

キリスト教の異端弾圧

なぜこんなむごい魔女狩りが数百年も続いたのかというと、キリスト教の異端弾圧が激しい時代だったからです。頑固で保守的、狂信的なキリスト教指導者にとっては、自分たちが信じる神以外を信仰する者は断固として排除すべき存在でした。

魔女狩りにともない妖しげな術を使うということで、たくさんの科学者も処刑されました。普通、魔女というと女性を思い浮かべますが、たくさんの男性も「魔女」として告発されたのです。化学、物理学、薬学、医学にたずさわる者は悪魔の手先と考えられました。このことによって中世ヨーロッパの科学の発展は明らかに妨げられました。

瑞穂の国の精神で

よく「日本人は宗教観がなくて、正月もクリスマスも全部やる」などと揶揄(やゆ)されますが、これは日本人の利点でもあります。日本は「瑞穂の国」とも言われますね。風にしなう稲穂は、あっちへフラフラ、こっちへフラフラと頼りないですが、風に逆らうことがないので折れません。イスラムとの対立や戦争を見ても、キリスト教が少し頑固であることを私はとても残念に思っています。瑞穂の精神、大いに結構ではありませんか。

ローマ法王庁が進化論を認めたのは1996年!

現ローマ法王ヨハネ・パウロ2世はかなり進歩的な考えの法王と言われていまして、2000年のミサで初めて過去の過ちについて懺悔をしました。しかし魔女狩りについての正式な謝罪はまだありません。

もっとも、ローマ法王庁が「地動説は正しかった」と認めたのはなんと1983年、「人類の祖先はアダムとイブでなくサルであった」と認めたのは1996年のことなんですよね。

やれやれ。魔女狩りについての謝罪は、あと5000年は待たないとだめみたいです。

参考文献

『オカルト下』C・ウィルソン・中村 保男訳

イギリスの思想家C・ウィルソンと言えば、博覧強記の知識人。日本で言うと荒俣宏みたいな人ですね。殺人や、オカルティックなものから哲学、心理学まで幅広いテーマでたくさんの本を書いています。この本では魔女や霊などをとりあげ、迷信、オカルトについて述べています。

このブログは2001年07月23日開設のサイト「幻想画廊」を2019年にWordpressで移築したものです。この記事は21年前の、2002年06月25日(火)に書かれました。文章の内容を変えずにそのまま転載してあります。リンク切れなど不備もありますが、どうぞご了承くださいませ。

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